数理的社会情動能力の発達を促進するAIエージェントシステムの開発

JST未来社会創造事業「個人に最適化された社会の実現」領域 探索研究 2022年採択課題

プロジェクト概要

発達障害児を含む子どもがAIエージェントとの社会的インタラクションの中で,数理的社会情動能力を習得できるシステムを開発します.数理的社会情動能力とは,本来見えない他者の心や他者との関係を読み,数理的にプラスサム関係を構築する能力です.プラスサム関係は,金銭的価値や社会的地位のような抽象度の高い少数の価値を争うのではなく,個々の内発的な多様な価値に従って,資源やタスクを分配することによって,より幸福度の高い社会の実現に寄与します.社会情動能力は,IQによって計測可能な認知能力と対比され,客観的計測,定量化が難しい非認知能力と言われてきました.しかし、ゲーム理論,進化心理学,社会心理学,認知科学,人工知能などの多分野で発展した社会知性の研究は,他者の心を読む能力と社会的関係の最適化の数理モデルを明らかにし実証してきました.わたしたちは,科学技術立国を実現するSTEM能力と同様に,社会構成員が,算数能力と道徳能力をハイブリッドした能力である社会情動能力を備えることが重要であると考え,AIエージェントとの社会的インタラクションの中で,発達障害児を含む子どもが学習できるシステムを開発し,その効果を検証します.

プラスサム関係とウェルビーイング

限られた資源の奪い合いはウェルビーイングを低下させます.一方で個々の多様な価値にもとづく分配はウェルビーイングを向上させます.例えば,1個のオレンジを姉妹で分けるとき,姉妹がともに中身を争うと,ゲームはゼロサムとなります(右図(a)).しかし,「オレンジの皮入りのケーキを焼きたい」という姉の潜在欲求に両者が気づけば,姉が皮,妹が中身を貰うというプラスサムの(パレート最適な)解(Win-Winの解とも言う)に至ることができます(右図(b),(c)).この問題は複数論点交渉問題として知られる問題ですが,囚人のジレンマなどの2×2マトリックスゲームと異なり,価値が両者に開示されていないところがポイントです.相互に価値を推定しなければ,ゲームがゼロ和であるか非ゼロ和であるかすら分かりません.ですから,相互に相手の価値を読むことが大切なのです.

偏狭な価値観,例えば金銭的価値,権力的価値への固執はゲームをゼロサム化し,プラスサムの可能性を見逃すことに繋がります.それだけでなく,ゼロサム関係の容認は,一方が他方を搾取・支配すること,すなわち「暴力,いじめ,パワーハラスメント,ジェンダー格差,所得格差」などの軋轢を正当化する理由にもなります.しかし多様な価値に目を向けると,軋轢は非合理な解となるはずです.例えば,感情に任せた暴力的支配は,刑事罰や民事訴訟,社会的地位の失墜,互恵的関係によって将来得られるはずの利益の逸失といった観点で,期待効用が極めて低いです.それにもかかわらず軋轢が減らないのは,「長期的目標の達成」,「他者との協働」,「感情の抑制」を可能にする社会情動能力を用いて問題解決をする能力が十分に備わっていないからだと考えられます.

道徳×算数

道徳と算数,なかなか結びつかない教科です.道徳では,善悪の判断,誠実さ,親切,思いやり,感謝,友情,信頼,規則の尊重,公平性などを学びます.一方で,算数では,四則演算,図形,データの取り扱いなどを学びます.例えば,道徳の教科書に採用されている「はしのうえのおおかみ」というお話があります.このお話は,狭い一本橋を我が物顔に専有する狼(前から来た小動物に「戻れ!戻れ!」と言う)が,心優しい熊(前から来た小動物を抱えて自分の後ろに移動させ,橋を通してあげる)の振る舞いを見ることで,自分の自己中心的な振る舞いを改めるとともに,良い気分になる,というお話です.小動物にとって,せっかく渡ってきた橋を,狼の通せんぼで戻らなければならないことは,身体的にも心理的にもコストが大きいです.一方で,体の大きい熊や狼にとって,小動物を抱えて移動させることはそれほどコストではありません.相対的なコストが低い方がコストを負担する社会では社会全体のベネフィット(ウェルビーイング)が向上します.このお話は「狼はなぜか,前よりずっといい気持ちでした」で締めくくられ,利他行動によって発生するポジティブな感情に帰着されますが,数理的な計算によっても,小動物を抱えて移動させることが社会全体の最適解になり得ます.

進化心理学,社会心理学,感情の研究は,感情の機能を明らかにしてきました.進化心理学的な考え方によると,狼の「良くなった気持ち」(ポジティブな感情)は,利他行動を促進させるために脳に埋め込まれた報酬です.個体として脆弱であった人類は,集団としてウェルビーイングを向上させるための様々なメカニズムを進化的,経験的,工学的に獲得してきました.狼に発生した感情はその一つで,その後の利他行動を促進させ,集団のウェルビーイングを向上させます.主観的な情動体験を機能,数理的に捉えることは,その情動の意味を知り,正当化するとともに,意識的な制御に繋がります.わたしたちは,道徳と算数をハイブリッドすることで,社会構成員が,豊かな情動体験を損なうことなく,数理的に対人関係を最適化する能力を獲得できる社会を目指したいと考えています.

News &Topics

小学校での実証実験:AIエージェントによる道徳

2023年9月4日

岐阜市立三輪北小学校の6年生の生徒に対して,本プロジェクトにおいて開発したAIエージェントを用いた道徳教育プログラムの実証実験を行いました.このプログラムは岐阜市の全小学校で配布されているiPad上で動作します.プログラムは文部科学省が発行している「私たちの道徳5・6年」の中にある,ゴミ捨て当番の押し付け場面の3人の会話を題材にして開発しました.生徒自身がクラスメート役のAIエージェントとのインタラクションの中に当事者として入り,会話の場面を経験します.また,先生役のAIエージェントが問いかけを行い,それに対して生徒が回答することで学習が進行します.回答はサーバに蓄積されており,生徒はクラスの他の生徒がどのような考え方をしているかを随時確認しながら学習を進めることができます.授業の中で,生徒たちがAIエージェントの発問に対して自己対話し,問題について真剣に考え,前の質問に戻ったり,仲間の意見を見て問い直したりすることで,主体的かつ思考をフル回転させて取り組んでいる様子が見られました.生徒の「45分間,ずっと考え続ける授業でした」「いっぱい他の人の意見をきくことができました」という感想は,「特別の教科道徳」が推進する「考え議論する道徳」がAIエージェントの導入によって実現される可能性が高いことを示唆しています.

プレス発表:交渉において心を読む能力を向上させるAIエージェントを開発

2023年7月22日

東海国立大学機構 岐阜大学の佐藤 幹晃(博士前期課程2年)、寺田 和憲 教授らは南カリフォルニア大学のJonathan Gratch教授との国際共同研究によって、交渉の成功に重要な心の状態の1つである相手の選好(価値観の相対化によって得られる順序関係)を読む能力を向上させるためのAIエージェントシステムを開発し、成人を対象としてその有効性を示しました。
 多くの人にとって交渉は難易度の高い社会的相互作用です。そのため、例えば、給与交渉が収入を向上させる可能性を持つにもかかわらず、多くの人が給与交渉をせずに提示された給与をそのまま受け入れていることが知られています。また、交渉への消極性が経済的不平等や賃金停滞を助長する一因となっている可能性も指摘されており、交渉能力の向上は社会的課題であると言えます。一般的に、交渉ではWin-Winの関係になれる可能性がありますが、そのためには、複数ある論点に対する選好を相互に正確に見極め、資源の分配を最適化する必要があります。選好は直接観察できない心の状態であるため知ることは容易ではありません。人は日常的に、直接観察可能な相手の行動や表情から相手の選好を推論していますが、交渉においては、相手の選好が自分と一致しているという固定パイバイアスなどのさまざまな認知バイアスが選好の推論を困難にしており、認知バイアスの克服が課題となっていました。
 本研究グループは、人の感情が個人の選好に基づいた状況評価の結果により表出されるという評価理論(appraisal theory)に基づいて設計した感情評価生成モデルをAIエージェントに搭載しました。評価プロセスを視覚的に明示し、ユーザに言語的フィードバックを与えながらシンプルな交渉タスクを行うことで、選好と表出感情の対応関係のモデルを用いて選好を推論する方法を学び、選好を読む能力を向上させるシステムを開発しました。また、成人187人を対象とした実験の結果、提案方法によって、選好を読む能力が向上することを確認しました。
 本研究グループは、高ウェルビーイング社会の実現のためには、社会構成員が相互に相手の心を読むことによって他者の多様な価値を認め、資源やタスクの分配を数理的に最適化する能力(数理的社会情動能力)を持つことが重要だと考えています。今後は、本研究の成果を発展させ、道徳と算数をハイブリッドした教育プログラムをAIエージェントとのインタラクションに実装することで、コミュニケーションに課題を抱える子どもたちも含めた、社会の未来を担う多くの子どもたちが、相手の心情を理解し、多様な価値観を尊重し、複雑な人関関係にうまく対応する能力を獲得できるシステムを開発する予定です。
 本研究成果は、日本時間2023年7月22日(土)に科学誌「IEEE Transactions on Affective Computing」のオンライン版で公開されました。

組織・メンバー

寺田G

統括,認知科学・人工知能の観点から理論的検討,学習支援AIエージェントの開発

グループ統括

寺田和憲 (研究代表者,岐阜大学工学部)

研究参加者

  • 尾関智恵 (愛知工科大学工学部)
  • 鈴木大介 (岐阜市教育委員会)
  • 松浦直己 (三重大学教育学部)
  • 水野君平 (北海道教育大学教育学部)
  • 柳沼良太 (岐阜大学教育学部)
  • LI Yang (名古屋大学大学院情報学研究科)
  • 松田治真 (岐阜大学工学部)
  • 佐藤幹晃 (岐阜大学自然科学研究科)
  • Jonathan Gratch (University of Southern California)

吉川G

学習支援AIエージェントのためのマルチモーダルインタラクションシステムの開発

グループ統括

吉川雄一郎 (主たる共同研究者, 大阪大学大阪大学大学院基礎工学研究科)

研究参加者

  • 伴碧 (大阪大学大学院基礎工学研究科)

鹿子木G

定型発達児を対象とした社会情動能力の数理的発達の検証

グループ統括

鹿子木康弘 (主たる共同研究者, 大阪大学大学院人間科学研究科)

研究参加者

  • 高橋七海 (大阪大学大学院人間科学研究科)
  • 千々岩眸 (大阪大学大学院人間科学研究科)
  • 戸田梨鈴 (大阪大学大学院人間科学研究科)
  • 戸田七鈴 (大阪大学大学院人間科学研究科)

熊﨑G

発達障害児を対象とした社会情動能力の数理的発達の検証,交絡因子の解析

グループ統括

熊﨑博一 (主たる共同研究者, 長崎大学医学部)

研究参加者

  • 原口英之 (国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所)
  • 清水日智 (長崎大学病院)
  • 川原紘子 (長崎大学病院)